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応援指導部 小史

 我が校は明治31年に第4尋常中学校として創立された。春高の徽章(きしょう)、団旗にあるしるしはこの4番目の

中学校というところからきている。

 

 「大正13年」我が春日部高校の前身である粕壁中学校応援団は本校創立に遅れること20年余り、校友会の

一団体として発足した。このことは応援団史上非常に古く、当時東京六大学にも、明治・法政にしか応援団がなく、

埼玉県内に至っては、全く応援団というものがない頃であった。この歴史と伝統は全国に於いても指折りである。

 

 昭和23年に校名が春日部高等学校に改められ、同時に戦時中停滞気味であった応援団が再興した。又、32年には

慶應義塾大学應援指導部よりコーチを招き、正しいリーダー技術を学んだ。部の名称も34年に「応援団指導部」

翌35年には部員だけでなく皆と一緒に応援しようという意味を込め「応援指導部」と改められ、

「勝利の拍手」「撃滅の拍手」「チャンスの拍手」が完成した。そして、翌36年には

応援歌「若き血潮」「春高音頭」が完成、第1号団報も発行され、第1回「エンジの集い」(現在は「臙脂の集い」)が開催された。この「臙脂の集い」は春高祭のメイン行事として現在も多くの方に親しまれている。

続いて52年には応援歌「春高健児」学生歌「母校よ春高」が完成した。

同年川越高校應援團・浦和高校応援団・熊谷高校應援團と共に四校応援団連盟が結成され、第1回「日輪の下に」が

開催された。そして54年には不動岡高校応援部が応援団連盟に加盟した。56年には創部60周年を記念して

応援曲「勇者春高」が完成した。60年には松山高校應援團が応援団連盟に加盟し、現在の六校応援団連盟となった。

 平成元年、創立90周年を記念して、応援歌「猛き精鋭」が完成。7年には応援曲「轟快なる勇志」が完成した。

11年には学校創立百周年を記念して、学校側の全面的な協力により、現在の大団旗が完成した。

13年には「前奏ラテン」「ビッグウェーヴマーチ」を新たに作曲、これらに「勇者春高」を加えた3曲による

野球応援メドレー「常勝春高」が完成し、16年新たに作られた「鼓舞激励」「英姿颯爽」と「常勝春高」を

組み合わせ、新しい野球応援メドレーが完成した。18年にはOB諸兄の全面的な協力により、新団旗が完成した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 埼玉県下にはおよそ20~30の応援団があるという。しかし、その中に確実に存在する六つの応援団がある。

浦和高校応援団、川越高校應援團、熊谷高校應援團、不動岡高校応援部、松山高校應援團、

そして我々春日部高校応援指導部を合わせた「六校応援団連盟」である。

 

 昭和52年初秋、春日部高校応援指導部と、それを模範としていた浦和高校応援団との間で連盟結成の話が

持ち上がった。そして当時、春日部高校応援指導部副団長であった上野賢了さんを中心に、同旧制中学であった

川越高校應援團、熊谷高校應援團も参加して昭和52年9月、ここに四校応援団連盟が結成された。そして、普段は

あまり目立たない応援団の活動を少しでも御理解頂く為、また四校の団結を強める為にと四校応援団連盟演技発表会、

第1回「日輪の下に」を時を同じく春日部高校で開催した。

「日輪の下に」という題名は上野賢了さんが考案したものである。なお、第1回から第4回までには年に2回

行われていたが、第5回からは年1回に定着し、毎年2月に開催される。

 

 昭和54年には不動岡高校応援部が先代からの加盟希望と四校応援団連盟の要請、

また同じ旧制中学であったということもあり応援団連盟に加盟、昭和60年には松山高校應援團が

川越高校應援團の紹介と熱心な加盟希望、同じく旧制中学であったということもあって加盟し、

六校応援団連盟結成に至った。

六校応援団連盟 小史

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